こんにちは〜、神代です(*^^*)
マゼンティークではスクールを不定期にやっています。
そのスクールは『相談業、セッション業、教育業などの人を高める仕事をしたい人全般※』向けのものなのですが…(※「提供者」や「ユニオス・エデュケーター」とも呼んでます)
私が人を育てるうえで大事だなあと思ってることの一つが…【教える側もある程度、制限がある前提でやる】ということなんですね。
ということで、今回はそれについての思いをお話したいと思います。
制限はない方がいいんだけれど、あるのが現実
制限とは…100%能力を発揮しやすい状況ではないということ。
もちろん、本来ならば教える側も教わる側も100%整っているのが望ましくはあります。
ですが、現実世界って、何もかも100%整っていることってほとんどないんですよね(笑)
これって子育てや仕事なんかでもあらゆる場面でそうだと思うのですが…
やる側も、人間なので、コンディションが今ひとつのこともあれば、技量や経験が足りなかったり、見えない出来ない部分も出てます。ハード面でも、予算が足りなかったり、人が足りなかったり、十分な時間を割けなかったり、締切のために何かを妥協しなきゃいけなかったりする場合があります。
これって特殊なことではなくて、むしろ当たり前のことなんですよね。
どんな環境でも、能力を発揮できる自分になるために
もちろんなるべく環境が整うよう万全を期すというのも大事ではあるのですが、それ以上に私は【十分でない状況の中で、どれたけベストを尽くせるか】というところが、教えるうえでのキモになるのでは
くらいに思っているんですね。
「環境が整っていないからできなかった」ではプロになれない
ひとつ目の理由としては【教わる側】も教わったことを発揮する場面で100%の環境が整ってないことのほうが多いからということ。
例えば「教えてもらったことを活かして、これから仕事をします!」という時に、「環境が整ってないから能力が発揮できませんでした」「今回は不測の事態があったからうまくできなかった」ということを毎回言っているようでは、プロを名乗るのはちょっと厳しいですよね。
私達は生身の人間であり、相手もまた生身の人間。そして自分以外の色んな要素で常に変動する世の中で生きているんです。
ですから、「環境が整っていないことをある程度当たり前として、どういう状態でも一定の成果を挙げられるようになる」ことを目指し「もしも成果が上がらなかったときは今後学びに変えたり、気持ちを消化していく」ということを、姿勢毎学んでもらうのは非常に大事なことかなあと思っているのです。
教わる側の環境を整えすぎない理由
少し話は脱線しますが、同じような理由から、『教わる側が学ぶ人達の環境を整えすぎない』ということもけっこう気を配っています。
例えばこちらがモチベートしすぎたり、細かく察知してフォローしたり意見を聞いたりなどというふうに、こちらが親切にスロープを作れば作るほど『整えてもらう』が当たり前になってしまうから。
お客さんならばそれでもよいでしょう。
でも自分から『何かを与える側』になりたいのであれば⋯段差があろうが自分で学びを取りに行く姿勢だったり自分で自分のコンディションを整えたり気持ちをコントロールすることを身につけようとする姿勢は必要なのではと、私は考えているんですね。
制限の中でこそ、人間性って出るもの
さて、話は戻りまして…
【教える側が十分でない状況の中で、どれたけベストを尽くせるか】ということを大事しているという二つめの理由は「そのほうが教える側の人間性を、見てもらいやすいから」という部分にあります。
・・・こういう風に書くと、「神代がめっちゃ人格者だから、それを見て学べ」って言ってるみたいに見えるかもしれませんが、そういうことではないんですよ!(笑)
というのも、教わるほうの側にいある人というのは、実は非常に敏感。
教える側が「これを教えようと思って意図的にやっていること」よりも、実は、教える側が「無意識に放っている言動やエネルギー」からのほうが、たくさん吸収して学んでくれるんですね。
なので、「教える側が完璧に整った状態」であるよりも、『うまくいかないとき、難しいとき』に教える側がどういう人間性をさらけ出すか…という姿を見せるこそ非常に学びになるのではと思っているのです。
時には、失敗したり、時に取り乱したり、迷走したり…“ダサい”姿を見せてしまうこともあるでしょう。場合によっては「ああはなりたくないな!」という反面教師になることもあるかもしれませんし、スマートなやり方ではないのかもしれません。
だとしても、やはり生徒さんに受け取ってもらえるものがそっちの方が多そうなので、なるべくそのように心がけをしています。
制限を排さず、仲良く付き合えるようになるために
・・・ということで、今回のまとめはこちらです。
まとめ
- 教える側として、環境を整備しすぎないようにしている。なぜなら、制限のある環境は当たり前で、その中でベストを尽くす力を育てることが大事だから。
- 「制限」が適切にあったほうが、学ぶ側の自主性が育ち、段差を乗り越えようとする気持ちが出てくる。
- 教える側として、なるべく人間性や制限の中での対応を示すようにしている。そのほうが、吸収してもらえることが多いと考えるため。
さて、いかがでしたでしょうか。
【制限】があるとやりにくさを感じてしまうのが人間というもの。
だけど、「あって当たり前。あるものの中でどうしていこう。ないものをどう補っていこう」。そういう風に考えるのが「調和する」ということであるのかもな、と私は思うのです。
セッションで目指すものは勝ち負けや解決ではなくて「調和」ですからね!
さてさて、来年上旬には次のスクールが始められそうかな?と思っているところ。
興味がある方はぜひぜひブログをチェックして下さいね〜。
マゼンティークでは必要なあなたのお越しを、お待ちしております!