私は、10代の頃から20代後半くらいまでの間、ずいぶん体調不良に悩まされてきました。
当時の私は「自分」を全く生きておらず、人の顔色ばかり見ては、自分のしたことを「あれでよかったのかな」「これでよかったのかな」と気にしてばかりいました。そして、霊感をコントロールすることもできず、辺りの悪い気なんかを吸いまくっていました。自分で自分の体をケアするというという感覚もなく、それどころか、過食や拒食を繰り返したり、自傷行為をしたりと、負担がかかるようなことばかりしていたような気がします。そういうわけで、慢性的な頭痛や肩こりその他の「病院にかかるほどではないけど、体感的にきつい」というような症状にいつも悩まされてきたのでした。
この時は、私は自分の体の調子の悪いことを「理不尽なこと」だと思っていました。「みんなはこれくらいしても全然疲れていないのに、私だけなんでこんなに具合が悪いの?」と、不当な目に合っているように感じていました。そして辛くなる度に、治療院(整体やカイロ、マッサージや針灸など)に行きました。社会人として無理して働いていたころは、週3回くらいのペースでそういったところに通っていたので「こんなに働いてるのに、施術代に全部変わってしまう、全然貯金できない…」といつも落ち込んでいたような記憶があります。そして、施術を受けても体調が良くならないと「あそこの施術者は下手だ」と思ったり、一時的に体調がよくなってもすぐまた元に戻ると「あそこの施術は効果が長続きしない」と思っていました。
でも、今振り返ると思うのです。
「あの頃は本当に自分の体に無責任だったなあ」と(笑)
もともと、自分の体の不具合は自分で生活の歪みが反映されたものなのですから、自分の生活を見直して直さなければ、外部からいくら手を尽くしてもらったとしても、改善するはずがありません。
なのに自分の体の不具合を「理不尽(自分のせいじゃない)」と考え、「施術者になんとかしてもらおう(人任せ)」とし、うまくいかないと「施術者のせい(周りがちゃんとやってくれなかった)」にしていたのです。
思えばその頃の私は、体のことだけにとどまらず、自分のあらゆる「不具合」をいつも周囲や環境のせいにしていました。
自分の「性格」「生きかた」「やるべきこと」などあらゆる要素を「あの人のせいで」「この人に言われたから」「こういうルールがあるから」…というように、なんでもかんでもみんな、人のせいにして生きていたのです。
『やりたくない仕事だけど、やるのが社会のルールだから』と社会のせいにし、
『ちゃんと働かなければ、親が心配するから』と親のせいにし、
『霊感があるなんていうとみんなに引かれるから秘密にしておこう』とみんなのせいにし…
それでいて
「みんなのせいでこんなにボロボロなのに、それでもみんなのためにいつも動ける私って、偉い!大人!人間出来てる!」
とどこかで自分を人間として立派なように思っていたのでした。
でも本当は違います。
単に私は『自分の責任で自分の人生を生きることが怖かった』だけだったのです。
自分の理由で『私、これやりたいです!』『私、イヤです!』と言って責められるのがコワイから、『○○さんにやれって言われたからやります!』『××さんのせいでトラウマがあるので、怖くてできません!』という風に言って、誰かに何か言われても『だって私のせいじゃないもん!』と言える逃げ道をいつも作っていたのです。要するに、自分の責任で自分の人生を生きることから逃げていただけだったのですね。
さて。
ここから私が「どんな風に変化していって今に至るのか」はちょっと話が長くなるので、またの機会ということで、今回は割愛しますが…(笑)
この話を通してご説明したかったのは「自分の責任で生きるというのはどういうことか」ということ、そして、人生のルールについてなのです。
ここまで書いてきたように、昔の私はいつも「自分の責任での選択」を避けていました。
でも実は、どのような理由を付けようが、人生には「自分で選んだことに対応する結果を、自分の体で引き受けなければいけない」というルールがあります。
私が「自分は選択してないです!あの人のせいだから私には責任はありません!」というつもりでいたとしても、それを人生は「なるほど、あなたは『自分以外の事情で、本意でないことをやる』『自分で責任をとらない』という選択を自分の責任でするんですね、わかりました」と言って受理するのです。
そして、この宇宙は自分で選択したものと同じエネルギーのものが自分に返ってくるようにできていますので、結果として『周囲の人もまた、私に対していつも本意でないことをする(例えば、怒りたくないのに怒る等)』『周囲の人が責任を取ってくれない』という現実が起き、それを私は自分の体をもって引き受ける…ということになっていたわけです。
さらに人生というのは非常に親切にできているので、一度何かを選ぶと、「あなたはそういうのが好きなんですね。わかりました、じゃあ今後もそういうようなものがくるよう発注しておきますね!これはどうでしょう?こんなのもいいと思いませんか?」と、似た感じの試練を次々と手配してくれるのです。まるでAmazonの「閲覧履歴に基づくおすすめ」のような感じでしょうか。
つまり私は、「誰かのせいで自分を生きられなかった、人のために自分を犠牲にしていた」わけではなく、「自分にとって都合のいい言い訳が欲しかったので、いつも自分の人生をかき乱すような人や事件を、ほかでもない自分自身で無意識に呼び込みまくっていた」というわけだったのです。
このように、人生は『その人の選択をいつも、主体的なものとして受理』します。
選択するのが嫌で【先延ばしにしつづける】と、【自分で『先延ばしにするという選択』をした】とみなされ、【自分も待たされたり、後回しにされたりするという結果】を引き受けることになります。
選択するのが嫌で【選択をしない】でいれば、【自分で『やるべきことを放棄するという選択』をした】とみなされ、自分もまた、【必要なことを周りにしてもらえなかったり、無視されるという結果】を引き受けることになります。
人生は「選択」や「責任」から逃れることはできないようになっているのです。
さて。
あなたは日々、どんな選択をし、何を引き受けて生きていますか?もし自分が望んでいないものを引き寄せてしまうことがあるのなら、選択の仕方に見直すべきところがあるのかもしれません。
昔の私のように「誰か」のせいにしながら生きるのも、決して間違いではありません。それはそれでいろいろな学びがあるからです。
ですが、「誰か」のせいにして生きると、主導権がいつも「自分以外の誰か」にあるので、起こる物事にいつも振り回されて、いつまでたっても「自分本来のあり方」「自分が本来本当にすべきこと」にたどり着くことはできません。
自分の責任で生きるということは、『誰かではなくて、自分だけの理由』をに基づいて選択するということ。言い換えれば、外側でなくて自分の内側に正解を求め続ける…ということでもあります。世間体や周りの目、過去の出来事などにとらわれることなく、「自分の本音」を聞いて、勇気を出してその通りに行動すること。それをする以外に「自分」を生きる道はないと私は考えています。
これに向き合うのは正直なところ地味で面倒で、時にとってもしんどい作業です。でも一つ一つ向き合って自分のために何かを選ぶことができたなら、確実に目の前の景色が変わっていきます。そして、それは、外側の理由には絶対に影響されない、そして外から与えてもらわなくても自分の足できちんと立つための「あなただけの自信」に必ず変わっていきます。
本来の自分に戻りたい方。
同じことの繰り返しから卒業したい方。
もう十分自分らしく生きているけれど、さらにレベルアップしたい方。
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