「前提が人を傷つけていたら」の、もう一つの見方

こんにちは、神代桃子です!

 

さてさて、以前のブログで「自分の前提が、無意識に相手を傷つけているかも」という話をしましたが(読むにはこちら

 

「自分が悪意なく誰かを傷つけてしまった時にどうとらえるか」ということについては、実はもう一つ、別の見方があるんですね。

 

ということで今回はそのお話です。

 

 

さて、もう一つの見方というのは…

「相手が傷ついたら、それはもう相手の問題。なぜなら、その人がそれを求めていたから起きているだけだから」

というもの。

 

 

以前クライアントさんがこんなことをおっしゃっていました。

 

「自分が病気になった時、『何もしなくていいよ』と言われて、当時は『役に立たないってことか!』ととても傷ついた。

でも色々あって価値観が変わった今振り返ってみると、『それって無条件の肯定だった』と思える」

 

そう。

 

コミュニケーションとは、発信する側と受信する側、両方によって成り立つもの。同じ言葉であろうと「どういう風に取る」かは相手の価値観や解釈次第なので、発信側が気を付けるには、どうしても限界がある・・・というわけなのですね。

 

『でも、受け取る人によって解釈が変わるのはわかったけど、だからといってわざわざ傷つくことは求めていないんじゃ?』と、思う方もいるかもしれませんね。

 

 

ここで、内観の考え方をちょっとご紹介します。

 

それは

「この世は自分の潜在意識の反映であり、起きることは自分が望んでいることか、あるいは望みをかなえるために必要なことだけ」

というもの。

 

 

言ってみれば『内観』とか『ブロック解除』というのは

この考え方に基づいて、自分が持っている悩みやモヤモヤ(自分ではコントロールできない、周囲の人や環境や出来事など)から『これを人にしてもらうということは、自分の潜在意識にはどういう意識や望みが隠れているのだろう』と探して取り出すこと

でもあるのですが、

 

この考え方を前提にすると、

悪意のない発言で傷つけられたという人は「それを望んでいた」。

つまり、そうなることに何らかのメリットを感じて、それを起こしているということになるんですね。

 

 

「ええ、まさか、そんな!」と思う方もいると思いますが、人は必ずメリットがあることしか起こしていません。

 

例を挙げると

「傷つけられることが愛だと誤解している(つまり、愛を貰っている)」

「傷つけてもらってショックを受けることで、被害者の役割を演じることができる」

「傷つけられることによって、本当に目を向けなければいけないものから、目を背けられる」

「傷つけてもらうことで、相手に罪悪感を感じさせたいと思っている」

「傷つけられることで、『こんなひどいことされたよ!』と仲間と盛り上がれる」

「傷つけられることで、自分が人を同じように傷つけていないか考える視野が得られる」

などなど。

 

一見「不幸」だったり「辛い」出来事でも、人によって様々なメリットが隠れていたりするんです。

 

なので、仮にあなたが悪意なく誰かを傷つけてしまっているのなら…『その人はその人の事情でそれを望んでいる』側面があるので、それはある意味もはや、その人自身の問題だったりもするのです。

 

そして、もっと言えば…

基本的に世の中に起きるのは、「お互いに自覚はしていないけれど、同意の上でWIN‐WINでやっていること」だけ、と私は考えています。

 

つまり、この場合『「うっかり傷つけてしまった側である」あなたの方にも

『自分の悪意のない発言で、誰かを傷つけてしまったということを知るという経験』

が、何らかの理由で必要だったということになるわけですね。

 

 

 

 

さて、そう考えた時、あなたには世界はどんな風に見えますか?

 

あなたがこれまで傷つけたと思っていたこと

あなたがこれまで傷つけられたと思っていたこと

 

思い返してみてください。

 

それらすべてが互いの同意の上だったとしたら…

それぞれはどんなメリットをそこに見ていたと思いますか?

 

「今まで見ていた世界の見方を変えることを選ぶこと」

それが自分との対話の第一歩になることはとっても多いんです(*^^*)

 

さてさて、サポートが必要な時は、いつでもマゼンティークに遊びにいらしてくださいね!

 

 

 

 

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