「無意識に人を傷つけてしまう」を考える

こんにちは、マゼンティークの神代です。

 

さてさて、前回のブログで、「好きになれるかは運で、その人の意志も人格も関係ない」的な話をさせてもらいましたが、その時のベビマの師匠とのやりとりで、私はもう一つ思ったことがありました。

 

神代「無事(赤ちゃんが)生まれました~」

師匠「良かったね!で?可愛い?」

神代「可愛いです」

師匠「良かったね。可愛いって思えない人もいるんだよ

 

 

さらっとした一言でしたが、私は「へえ~、なるほど!!!!!」と思いました。

 

 

そうなんですよね。

自分の赤ちゃんを見て可愛いと思う人、可愛くないと思う人がいる。

でもそれって、自分で選べない。運なんだよなあ、と。

 

これなんですけどね。

私は「で、可愛い?」という質問に対して、「何でこんな当たり前のこと聞くんだろう、可愛いに決まってるのになあ」くらいのことを思ったんですよ。

でも、その「可愛いに決まっているのに」という前提って、「赤ちゃんを可愛いとは思えなかった」という人を傷つける可能性があるんですよね。

 

自分にとっての当たり前→「それ以外の人はいないと無意識に前提にする=それ以外の人を無視する」ということなので、何気なく放った一言や言動が、意図せず誰かを無視したり、誰かの居心地を悪くさせたり、誰かを傷つけることもありえるということ。

これは本当に恐ろしいことだなあ、と思ったのです。

と言っても、「これは人を傷つけてしまうかもしれないからやめよう!」と思っても、「無意識の前提」だから自分にとっては対策のしようがない部分でもある。

そして、傷ついた人はほとんどの場合、それを表に出さずに、自分の内側で傷を処理することになってしまうでしょう。

じゃあ、これから何にどう気を付けていけばいいんだろう、と私はその時深々と思ったんですよね。

 

 

今は「多様性社会」ということを言われていて、本当にいろんな価値感があるということが少しずつ表に出てくるようになりました。そして、多様性があればあるほど「いろんな価値観を尊重しよう」という社会的な向きにはなってきているようには思います。

でも、自分と違う価値観や前提のある人とどうやっていくかというのは、シンプルに答えが出せる問題ではないのかもしれません。

自分とは違う価値観に対した時に「知識がある」とか「配慮する」ではカバーしきれない部分もあるわけで、そして、自分の状態によっては、知識もなければ、余裕がなくて配慮ができない、だけど上手くやっていかなければならない、というような場合も想定されるわけです。

また、自分が「この表現は人を傷つけないか」と気にしても、自分の価値観でしかそれを想像することができないため、自分と違う価値観の人にどう受け止められるかはやはり発信してみないと分からない部分があると思うんですよね。

いや、でも悪意ではなかったし、と考えることもできるかもしれません。だけど、これってなかなか曲者です。なぜなら、悪意でないからこそかえって傷付いてしまう場合もあるからです。

そんな中で「自分の前提が誰かを傷つけない」ために、「ある物差しの中で自分とは価値観の違う側に立った人を傷つけない」ために出来ることってあるんでしょうか。

 

いちばん私がいいと思うのは、もし傷ついたときには気軽に「その表現は嫌だった」と言えるような世の中になることです。

だけれど、それは言う方も受け取る方も、かなり土台が出来ていないと難しいと思います。

言う方にもかなりの負担がかかるし、相手を批判するのではなくフラットに対話に持ち込めるような言い方にするには、結構な自己肯定感も必要になります。また、受け手も「否定された」と捉えずに「じゃあお互い快適に過ごすにはどうしたらいいのか」を考える形に持っていけるだけの強度も必要になる。となると、なかなか社会全員がこうなるということを期待するのは(もしこうなれればいいですけども)現実的でない気がします。

であれば、出来ることは何かと言えば、「自分とは違う”こういう価値観があるのか”というものになるべく触れて、引き出しを増やす」「自分が傷つけてしまった可能性に気が付いた段階で謝る」ということくらいなのかもしれません。

逆に「傷つけられてしまった時」には、「人に何を言われようと、自分の本質的な価値は変わることはない」ということ、分かり合えないという人がいたら「相手は、線の向こう側にたまたま立っているだけなんだ」ということを理解することができたら、少しは処理が楽になるのかもしれません。

でもどちらの場合も「相手が自分の思いを理解して、行動を変えてくれる」ということは、あまり強くは望まないほうがいいかもしれません。というのも、それだと「自分以外のものが、自分の幸福を握っている」ということの表明になり、自分の人生の主導権を明け渡してしまうことになると思うからです。

いずれにせよ、これに関しては「こうしたらよくなる」とか「すべての人にとってこれがいい」ということは示せません。その時々で、落としどころを探しながら「じゃあ自分はどうしたらしっくりくるのか」を探し求めるしかないのかな、ということに尽きるわけで、そしてそれをまっすぐにするためには「自分との対話がしっかりできるか」が非常に大事になってくると、私は思います。

 

さて、今日のお話に関連して…グレート・ギャツビーという古典の冒頭で、こんな言葉が出てきます。

「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」。

これはいつ見てもすごいなあ、と思う言葉なのですが、本当にそうなのですよね。批判できるとか、否定できるとかっていうのは、ある意味「持っている」人にしかできないこと。

そして、何をどのように考えているのか、というのは、結局は立っている位置によって変わるわけで、それってつまるところ「運」でしかないのかもしれません。

 

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