映画で知ろう!ブロック解除~映画「帝一の國」~

常々ブログなどで「こういうのがブロックですよ~」等というお話を発信させていただいているのですが、今回はちょっと趣向を変えて「ブロックのことがわかりやすく理解できる映画」をご紹介させていただこうかなあ、と思います。

今回ご紹介するのは「帝一の國」という映画です

2017年に、菅田将暉さん主演で話題になりました、人気漫画の映画化作品です。「総理大臣になりたい」という夢のため、名門高校で生徒会長になることを目指し、あの手この手で奮闘する主人公の姿をコミカルに描いたコメディ映画です。

このブログでは、映画のストーリー紹介と言うよりは、「印象的な登場人物のキャラクター」を通して、ブロックに関する解説をさせていただきますので、ご興味のある方は是非映画とともにご覧くださいね(*´v`)

※ストーリーに関する重要なネタバレもありますので、ご注意ください。

 

「父の支配」から脱却する方法

映画は全編を通して、総理大臣になるために尋常でない執念を燃やす主人公・帝一の姿が描かれていますが、物語終盤、彼が「総理大臣になりたかった本当の理由」が明かされます。それは、「誰にも邪魔されずに好きなピアノが引きたかったから」というものでした。

彼は『幼少期、大好きなピアノを弾いていたら、父親から「他にやるべきことがあるだろう!」と強く叱られた』という記憶を鮮烈に持っていました。以来彼はピアノを弾く事をやめ、「総理大臣になる」という目標のためだけに、生活の全てを注ぐようになります。しかしその裏にあった本当の思いは、純粋に「総理大臣になりたい」というものでなく、「総理大臣になって自分の国を作れば、好きなピアノを誰にも邪魔されずに弾ける」というものだったのでした。

この出来事を、ブロックと言う観点から分析してみると、『好きなピアノを弾いていることを強く否定された』というエピソードによって、「自分は自分の好きなことをしてはならない」「何をするにも、立場が上の者から許可をもらう必要がある」などというブロックができていると推察できます。

ここで「好きなことをしたい(自然な欲求)」「でもしてはいけない(ブロック)」という葛藤が生じます。人は葛藤状態に陥ると何らかの解決策を見出そうとします。例えば、解決策として「我慢して父親の言うとおりにし、ピアノをやめる」という選択肢もあったでしょう(※実際にこのような状況になったとき「親にしたがってあきらめる」と言う選択肢をとるケースは非常に多いです)。しかし彼はピアノをどうしてもあきらめることが出来ず、解決策として「自分が一番上の立場になれば、自分の好きなことを好きなだけ出来る」→「総理大臣になればよい(そして好きなピアノを弾く環境を手に入れる)」という結論を自分なりに導き出します。そして、それに向かって何年も不断の努力を重ねてゆくことになるのです。

さて、ブロックの特性の一つに「ブロックがあると正常な思考が働かなくなる」というものがあります。ブロックに心が捉われていると、このように、本人はいたって真面目で冷静に考えているつもりでも、周囲から見ると『イヤ、それ解決策になってなくない?』とか『そんな極端なことをしなくても・・・』とか『手段と目的がつりあってないよね?』というような判断であることが多々あるのですね。

何も総理大臣を目指さなくても、例えば「父親が不在のときにだけこっそりピアノを弾く」「何とか父親を説得する方法を考える」「父親に逆らって弾きつづける」というような選択肢もあったはずなのですが、彼はその道を選ばず、「総理大臣」(←普通に考えると、この選択肢の中で一番大変そうに思える「合理的でない選択」)を真剣に目指すというところは、わりとブロックのパターンとしては「あるある」のひとつです。

また、見逃せないポイントの一つに、「総理大臣になる」という彼の打開策には「自分の邪魔をする父親を力で屈服させたい」という願望が反映されていることもあげられます。これは「好きなことが出来る環境を手に入れる」と同時に「自分を傷つけた父親への復讐を果たしたい」という2つの意味があるのですね。

また、彼の父親は政治家なのですが、彼もまた「自分が一番にならなければ意味がない」というブロックに縛られた行動をいつも取っており、帝一にもその生き方を強いています。つまり、「総理大臣になる(全員を支配下におきたい)」というブロックは、父親の未解決のブロックがそのまま子供に引き継がれているという姿でもあるのもまた興味深いところです。

 

さて・・・そういうわけで「自分が一番上に立つ」ことを目指して生きてきた帝一ですが、物語の途中、そのブロックが解消される2つの出来事が起こります。

それは、①『父親に「邪魔されずにピアノを弾きたかった」「父親はいつも自分の邪魔ばかりする」と今まで隠していた本当の気持ちをぶつけた』②『総理大臣になることを待たずに、ピアノを弾くことを自分で自分に許し、同級生の前でピアノを披露した』という帝一の行動でした。

これによって彼は自分で自分にかけた「好きなことをしてはいけない」という呪いを解き放つことに成功します。ブロックの根本的な解消のためには、「総理大臣になる」(他人に自分の権利を認めさせる)よりも、「自分の気持ちを見つめる」「父親に自己表現をする」「自分に自分で許可を出す」(自分で自分の権利を認める)ということが不可欠である、ということをよく表している場面だったと思います。

ちなみに、自分の気持ちを父親にぶつけるというのは、一見「そんなことをしてもどうにもならないのでは」と思えるかもしれませんが、実は非常に大事です。「力で支配されたから、好きなことをしても文句を言わせない状態を作る」のではなく、「されて嫌なことを表明する」「自分の気持ちをストレートに伝える」と言うことそのものが、深いレベルでの自己肯定と癒し、そして何よりも「本当の意味で父の支配から脱却する」ことに繋がっていたのですね。

こんな帝一の姿から見られる主なブロックの特性としては

ポイント

・ブロックがあると正常な判断能力が働かず、極端な行動に出やすい。
・ブロックは何かを達成するための「強烈な動機」になるが、問題の合理的な解決策になっていないことが多々ある。
・ブロックは外的な環境を整えて解決するよりも、自分で自分を認めて容認することにより解消できる。

と言うようなところが挙げられるでしょうか。

ちなみに物語の最後、帝一の野心は全く潰えていなかったことが明らかになり、「同級生たちを操って総理大臣になるぞ」と改めて宣言するシーンが出てきます。これについては詳しい描写がないので定かではありませんが、おそらく「ブロックはある程度解消され、今度はコンプレックスを埋めるための手段としてではなく、純粋な野心(自分の心からやりたいこと)として総理大臣を目指したい気持ちになった」と解釈してよいのではないかなあ、と感じました。

 

「あいつさえいなければ」の真意

帝一のブロックもさることながら、帝一の周囲にいる「極端な人々」もまたそれぞれにブロックを抱え、それを埋めるための行動をとっています。

ことあるごとに帝一の足を引っ張る『菊間』、賄賂をばら撒いてまで生徒会長になろうとする帝一の先輩『ローランド』、政治の世界でライバルを蹴落とし上に立とうとする『帝一の父親』なんかは特にわかりやすい所だと思います。彼らの共通点としては、自分の目標を脅かす存在は全て「敵」とみなし、攻撃的に反応したり、被害的にとらえてしまったりと、いつも心穏やかでないところにあります。ブロックがあると、知らず知らずのうちに身を削り、窮屈な選択ばかりしてしまうのですね。

とりわけ、菊間の存在は「劣等感」と「ブロック」に囚われている人間の姿として典型的なものであるなあと感じたので、ここで解説を加えることにしたいと思います。

彼は、帝一のやることなすこと何でも邪魔をしますが、その根源にあるものは「小さい頃から、自分の欲しい物はすべて帝一に奪われてきた」という強い思いでした。そこから「帝一さえいなければ自分はこんな惨めな立場にはいなかった」→「自分の価値が低いのは帝一のせいだ(帝一を引き摺り下ろせば、自分の価値が認められる)」という強いブロックが生じているのですね。そのため、彼は「自分が足りないのはいつも誰か(※「自分から奪う存在」はいつの間にか帝一だけでなく、周りの人たち全員に拡大しています)に不当に奪われているせいである」という感覚がいつもベースにあり、それを埋める為に「いつも人の足を引っ張る行動」を繰り返した末、「誰かを引き摺り下ろすこと」に非常に長けた青年となってしまいます。

実際のところ、彼の価値を認めていないのは他でもない彼自身であり、真の問題は帝一の存在ではなく「彼の中の自分の自己評価の低さ」にあります。それを、彼は「自分の問題」として見つめず「あいつのせいで何もかもうまくいかない」というように帝一に転化しています。
彼が心安らぐ日々を手に入れるために本当にするべきことは、「分かりやすい邪魔者を排除すること」ではなく、「自尊心の低さを人のせいにせず、自分の個人の問題として受け止めること」「自分が深く傷ついていることを認めること」「自分で自分の価値をきちんと認められるようになること」なのですが、彼は作中でそれに気がつくことはありません。

 

また、彼の行動を通して特筆するべきことの一つに「帝一の足を引っ張っている時は、非常にイキイキしている」という点にあります。

彼はおそらく葛藤に苦しむ一方で、もっと深いところでは『ブロックに溺れて苦しむこと』や『「妨害する」ということによって他者の人生に介入すること』そのものに肩までどっぷりと漬かってしまい、そんな自分の状況を手放せないでいるような要素が見受けられます。おそらく『他者を貶めたところで自分のコンプレックスが解消されないことも実は理解しているが、今の生活が楽しくてやめられない』という中毒のような部分があるのではないかと思います。

これは実は現実世界でも結構よくあることです。本人は「ブロックを手放したい」「辛い」と表面的に言っていても、もっと潜在的な部分では「もっとこれで遊んでいたい」という思念のほうがずっと大きいため、実は『根本的な部分から解決する気は全くない』というようなことですね(※とはいえ、手放すかどうかは本人の自由ですから、「もう少しこのままでいたい」というのはそれもまた人生の学びとして尊重されるべきものだとも思います)。

 

また、「帝一のことを憎んでいる」ような描写が多いのですが、それも見方を変えると「帝一に甘えている(帝一をエネルギーのはけ口にしてバランスをとっている、彼を自分が先に進めないことへの言い訳に使っている、自分の攻撃を受け止めてくれる存在がいることにある意味で安心している)」というようにも見えますし、さらに角度を変えれば「妨害することが彼なりの愛情表現である(孤独を紛らわすために誰かと濃密に関わっていたいと感じており、屈折した思いが攻撃の形をとってしまっている)というようにも見えてきます。彼は、帝一に対して攻撃を続けることで非常に多くのメリットを享受しているわけです。菊間は常々「お前さえいなければ」と口にしますが、実際には「帝一なしには自我が保てない状態」になっているのです。

これもまたブロックあるあるの一つなのですが、「大嫌いだ!」「これだけはやりたくない!」「こんなことをするなんてありえない!」「○○と思われたくない!」等の強いネガティブな思いを抱えているときには、潜在的に間逆の思念を持っている…ということは非常に良くあります。人間は自分にとってどうでもいいものにはそもそも関心を抱きません(実際に、ブロックが解消されると、それに心が動かされなくなり、急に「別にどうでもいいや」となることが多いです)。ネガティブな思いに強く囚われているという時点で強くブロックが作用している証拠であるといえるでしょう。「お前さえいなければ→お前がいないとダメだ」、「大嫌いだ→大好きだ」「やりたくない→どうしてもしたい」という風に、間逆のエネルギーを顕在意識に発生させて無意識に打ち消そうとしているのですね。

さて、彼を通してわかるブロックの特性としては

ポイント

・人のせいにしているうちは根本的な解決にはならない
・自己評価は、他者の目から見たものでなく、自分の中に自分で育てなければ、いつまで経っても確立できない
・根本的なブロックの根っこを解決しない以上、いつまでも同じことの繰り返しになる
・ブロックで一見苦しんでいるように見える人も、実は潜在的にはそれを楽しんでいて手放したくないと思っていることがある
・ブロックやコンプレックスで自尊心が育っていないと、愛情表現が、攻撃・支配・束縛・依存などの分かりにくい形をとることが多々ある。
・ブロックによって強い思いを持っている場合、潜在的には間逆の気持ちを抱えていることがよくある。

と言うようなところがあるかな、と思います。

「自分の心に従う」という生き方

さて、作中ではブロックに囚われる人々の対極にある存在として「大鷹弾」というキャラクターが描かれています。

彼には野心がなく、周囲の空気も読まず、その時に自分が思ったことを自由に発言し、型破りと思われるような行動を数多くとります。彼は「こうしなければならない」という観念に囚われることはなく、「こうしたほうが得をする」という利害を考えることもなく、「こんなことをしたらみんなに変に思われるのではないか」というような周囲の目を気にするようなこともしません。それらの行動が周囲の人に煙たがられ「あいつは常識がない」というような扱いをされることもありますが、彼はそれを気にも留めません。

彼はいつも『その時、純粋に自分が良いと思ったように行動する』という理念に則って行動しています。悩んだりするようなシーンもありますが、彼は「自分の心に従う」というシンプルなルールからブレることはなく、なにより「周囲の評価」でなく「自分自身で自分を評価」し続けているのです。これはブロックの少ない状態で生きている人間の、わかりやすい姿の一つであると思います。

一方で、彼は生まれつきブロックが少ない人生を送ってきたようなので、ブロックがたくさんある同級生たちの気持ちが理解できません。「なんであんなことで悩むんだろう」「どうしてあんなに物事に対して複雑に振舞うのだろう」という感想を持っています。

そして、ブロックがたくさんある周囲の人間たちもまた、彼の姿を見て「面白くない」と感じます。帝一もテストの点数で何とか彼に勝とうとしたり、「あいつはどうかしている」と彼の人格を軽んじるような発言をしたりする場面があるのですが、その批判は正当なものと言うよりは、「自分のブロックを脅かされている(自分が大事にしているブロックが価値がないものだと否定されているような気がする)ために起こる葛藤」だったり、「ブロックが少なく自由に生きられることへの猛烈な嫉妬」から来るものだったりするのですね。

彼のキャラクターを通して分かる『ブロックの少ない人』の特徴は

ポイント

・「周囲の評価」「損得」「こうあるべき」より「自分の満足感や自分の心」に従う
・裏表がなくシンプルである
・ブロックが多い人に妬まれやすい
・ブロックが多い人との間では、バランスがとりにくく付き合うのが難しい

というようなところにあるかなと思います。

 

 

さて、長々書いてまいりましたが、いかがでしたでしょうか。

この作品は「生徒会長の座を目指す高校生たちが、一喜一憂しながら争っていく姿」をオーバーに描いたコメディ映画と言うことになっています。ですが、ブロックと言う観点から見ると、あながちコメディともいえないかもしれません。

というのも、ブロックがあると知らず知らずのうちに人間は極端でオーバーな行動をとってしまうものであり、自然と「悲劇のヒーロー・ヒロイン」になって、その辛さに酔って物事を大げさにとらえてしまうような傾向があります(「ブロックやエゴは人生を盛り上げるエンターテイメント」といいう側面もあるのですね)。そう言う意味でも、この映画は「ブロックを持つ人間が陥りやすいあるあるネタ」を案外リアルに描いたものといえるのかもしれない、と感じました。

とはいえ、繰り返しお伝えしていることですが、ブロックそのものはけして悪いものではありません。あるから人間として未熟だとか弱いとかそう言うことではありませんし、ブロックがなければ学べないことも多いです。常々サロンで発信しているのは「自覚的に扱えば、自分で手放すことも出来るので、興味のある方は是非外してみませんか」というようなことでありますので、そのあたりもご理解いただければ幸いです(*´v`)

また、純粋な映画としても面白いので、まだご覧になっていないけど興味が沸いたという方は是非ご覧になってみてくださいね。自分や周囲の人の姿を重ねて見てみるのもいいでしょう。新しい発見があるかもしれませんよ。余談ですが、私はエンディングの永野芽郁ちゃんのダンスが非常に可愛くて好きです。チェックしてみてくださいね。

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