エゴで仕事をするということ

こんにちは、ももしろです。

今日はももしろの雑感です。

私は2年くらい前まではとにかく『エゴで仕事をするのはいけない』と思っていました。

なぜかというと、『エゴ=自分の穴が埋まっていない状態=お客さんを自分の穴を埋める道具にしてしまう』と思っていたからです。

お客さんを自分の穴を埋める道具にすると、相手のためになることよりも、人はつい、「感謝されたい」「凄いと思われたい」「この人を自分が助けたい」「この人に好かれたい」という思いを優先させてしまい、結局十分なサービスを提供できなかったり、依存させてしまうことにつながると考えていたんですね。

この考えは今でも間違っていたとは思いませんし、こう思っていたからこそ、死ぬ気で内観してきたので、土台の部分では絶対に必要だったとも思います。

ですが、ある程度内観を深めながら仕事をしていて、今は痛烈に思うことが一つあります。

 

それは『エゴでなければ手の届かない部分がある』ということです。

 

エゴのない状態でする仕事というのはいわば、主力のエネルギーが「無償の愛」みたいな状態なんですよね。

相手がどうであれ受け入れる、できるできないは関係ない、ただ寄り添い見守るという感じの愛です。

私はこれをよく「無記名の愛」と呼んでます。名前が書いてないんですね。人の器を通して体現されるだけで、人そのものの愛ではなくて、「存在が存在することを喜ぶこと」そのもののエネルギーみたいなもの。スピリチュアル的に言えば「高次の愛」という感じですかね。万人に向けていつも平等で、優しくて、どこまでも深くて途切れのないものです。

あと、ちょっと湯たんぽみたいなところがあります。最初は頼りないように見えて、ジワジワあったかくなると、なんだこれすごい気持ちいいぞ、もう手放せない、ってなるんですね。やけどもしないし、絶対に安全で、管理にも気を付ける必要はない、みたいな感じです。

非常に疲れ切っていたり傷ついて弱っている人や、まだ自分の足で立つタイミングでない人には、この無記名の愛が非常に有効です。無記名の愛は、人を傷つけたり奪うことは絶対にしないからです(ただし、最初の中は気が付いてもらえないことが多いですけどね)。

ただ、ひとしきりこの「無記名の愛」で仕事をしていた時期を経て、ある時に「ああ、届かないなあ」と思ったことがあったんですね。

湯たんぽは湯たんぽで本当に素晴らしいんですけれど、そして、これがないと対人へのお仕事は絶対にできないんですけれど、一方で「優しくて暖かい」だけではダメなんです。

…という表現をすると、『甘やかす』みたいなニュアンスに平易に取られてしまうことが多いのですが、それとは少し違うんです。

いわゆる『無記名の愛』みたいのを集中的に与えられたとき、最初は良くわからなくて、ブロックが外れてくるとそのあとだんだんありがたくなってくるんですけど、それにも慣れてしまうと、なんとなく当たり前になってくるのですよね。

実家に行くとごはんが出てくる、的な。愛されてる愛されてる、わかってます、みたいな。湯たんぽがあったかいのは当たり前で、それどころか「お湯入れるのめんどくせーな」みたいになってくるんです。

この現象がなぜ起こるかというと、もちろん人間の「慣れる」能力の高さにも由来するとは思うのですが、それだけではなくて、「無償の愛が無記名」であるところからきてるんじゃないかと思うんです。

自分が人として存在されているだけでいつも愛されている。だけど、人間っていうのは強欲かつ多面的なので、それだけでは緩まないという箇所を内側に必ず持っているのです。『自分はヒトであるというだけど万物から愛されている』その感覚は確かに土台としては必要不可欠です。ただ、それだけでは、たぶん足りないんです。

【「こういうわたし」が「こういうあなた」に、これを送ります】

という風に、はっきり自分の中の「特定の何か」に紐づいて、かつ、送りてのパーソナルな動機に由来した、ガッツリ記名された愛じゃないと、たぶん、動いていかない部分が人間にはあるんですね。

無償の愛が湯たんぽなら、エゴの愛はガスバーナーみたいなものでしょうか。ハイカロリーなんだけど、扱いが難しい。炎の箇所によっても全然温度が変わるし、焼こうと思っても、表面しか焼けてないないことがある。あとは、ボンベごと爆発するリスクもあります。

ただし適切に使えるようになるとものすごく瞬発力が出ます。必要な箇所だけしっかり温めることも、硬くて手ではほどけない部分を焼き切ることもできる。

そして何より『明確かつ個人的な動機』は非常にエネルギーが高いため、他者のそれに照らされると『自分』の輪郭がくっきりと浮き上がってくるんですね。

人は自分を愛するためには「自分とはどういうものか」「自分と他人の違いは何か」という輪郭を明確に把握する必要があります。どこかで自分を区切らなければいけない。それは、通常は時間をかけて掘り出さないと出てこないものなのですが、エゴのいわば、ハイビームみたいな強烈な光で『あれ、自分ってこういう感じじゃなかったっけ』という本来の姿を強く想起することができるんです。

これは意識というよりは、無意識の中で現象なんですが、この「強い焼き付け」を潜在意識の中で受けた人の成長度合いや回復度合いは、普通の比ではないくらい早くもなるんです。

まあ、早いければいいというわけではないのですが、スピードを本質的な意味で必要としている人や、高い熱量で一気に溶かさないと開かない扉を持っている人は、やはり存在するわけで、わたしはそういう方にお仕事で出会えた時に思うんですね。

自分にエゴがあってよかった。自分は神様でもなく万能の存在でもなく、くだらないことで悩んだりすっとこどっこいのまま何とか生きている個人の人間で本当に良かったと。だからこんなに面白い体験をさせてもらえるのだな、と。

とはいえ、エゴは付き合うのに手間がかかるものです。純度を高めて常に鍛えておかなければ、やはり危ない。酔っぱらって平衡感覚が失われてしまうこともあります。あまり自覚はしてませんが、おそらくこれまでにも危ないことがあったような気がします。取り扱いを誤って、呑まれてしまうこともありうるんですけれど、だけどそういう時には、本当に不思議なんですけど、ちゃんと「無償の愛」がそれを補完しに来てくれるんですね。

だからどっちも大事で、どっちが優れているというわけではないんですけど。私の場合は、無記名の愛を足場にして、ガンガン記名のラブレターを送るというやり方が、今現在は性に合っているのかな、と感じているんです。

私は「これが私の使命」とか「神様が導いてくれるから」とかは思ったことがあんまりありません。もちろん多大かつ手厚く導いては貰ってるのですけれども、私は単なる宇宙の道具になるつもりはないんです。『スピリチュアル』というものに、私はここまで育ててもらいました。だからこそ、自分の身をもって証明したい。美しい器になるだけがスピリチュアルを行う方法ではないと。

それがどういうことなのか、その過程でどういうことが起こるのか、私にもまだよくわかりません。それを模索することで、この世界に正解がまた一つ増えれば、それだけで十分豊かなことなことなのではないかしら、と思っています。

 

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