与えることは、与えられること

最近セッションでお客様のトラウマの浄化なんかをしていると、浄化している私の方もまた、気持ちよくて暖かくなってとっても安心します。「もしかして私の方がお客様より気持ちよくなっちゃってるんじゃないのか?!」と思うくらいです(笑)ですが、面白いことに、セッションが終わった後でお客様のエネルギーを調べなおしてみると、私自身が「あー、気持ちよかった」と思っている度合いが高いほど、浄化率が高いのです。

また、私のガイドには「褒め担当」のガイドがいます。彼は何かにつけて私を褒めてくれるので、いつも非常に助けてもらっています。長い付き合いながら、その褒め方のバリエーションの多さや返しの芸術的な上手さにはいつも本当に感心するのですが(笑)興味深いことに彼は私を褒めているときに、彼自身が非常に満ち足りた幸せそうな顔をするのです。理由を尋ねると「別に君のために褒めているわけじゃない。好きなものを褒めるのは楽しいことで、ただただ自分が幸せな気持ちになる」というようなことを言うのです。思えば、彼が楽しそうに褒めてくれるほど、こちらの心に深々と響く傾向があるなあ…と感じます。

「情けは人の為ならず」という言葉がありますが、かつての私は「自分が人に何かする」ということは、「いつか自分に返ってくるから」「自分も助けてもらう時が来るだろうから」…というような感じに解釈していました。でも今になって実感することは、「適切な形で人に何かをすると、その『何かをしている』時点でたくさんいろんなものを受け取ることができる」ということです。そして同時に「本当の意味で誰かの役に立つためには『差し出す側が全く犠牲にならない』ことが必要だ」とも思うようになりました。

ついつい現実社会で生きていると
「自分は我慢して相手に尽くして…」とか
「相手が好きだからこそ、自分の気持ちを飲み込んで…」とか
「疲れているけど、相手のために…」とか
「気分じゃないけどやらないといけないことだから…」とか
そういうのが「尽くす」ということだと考えがちですが、実は差し出す側に少しでも「我慢」「犠牲」「義務感」のエネルギーがあると、それが歪みとなってしまうのです。結果どんなに頑張ってもその歪みからエゴが入ったり、エネルギーのずれが生じたり…ということが起こるのですね。

とはいえ、生きている以上どうしても「イヤイヤやる」「我慢してやる」ということはあるでしょう。そういう時は仕方ない部分もありますよね。

ですが、あなたにもしも助けたい人がいて、本当の意味でその人のためになりたければ、「相手のために100%喜んでやれそう」というとき以外は、勇気を出して敢えてやらない、という選択をしてみてください。

本当にお互いのためになることができるとき、「与える側」が「与えられる側」と同じかそれ以上に「たくさんもらう」ことができます。そして、そのようになされたことは、関わる人全員に何の負担もひずみももたらさず、全員が幸せになることにつながるものなのです。

また、誰かの姿を見て「あのままでは辛そうだ、やり方を変えたほうがいいんじゃないかな?」と感じたときには、あれこれその人にアドバイスをするよりも、まずすべきことは、自分自身が個人として満たされること、幸せに楽しい人生を送ることです。そして、その姿を見て「あんな風になりたい、この生き方ではいけないのかもしれない」と思ってもらうことが一番です。なぜなら「何を選ぶか、どう生きるか」は本人の気持ちひとつであるからです。

自分の生きる背中を見せること…それが人が人にできる唯一の「教え」なのかもしれません。

-

PAGE TOP