桃子のつぶやき

職業は、祈ること。~「あと少し」のときに作用する力~

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こんにちは、神代です(*^^*)

今日は自分の仕事に関する私の雑感を書かせていただきます。

 

私は自分の仕事をとても気に入っているのですが…結局何をしているのかというと「祈っている」んだろうなあ、と思うんですよね。

祈りというと宗教的なアレを思い浮かべる人も多いと思うのですが、様式としてはちょっと違います(ちなみに、ももしろは霊能者ですが、特定の宗教は特に信仰しておりません)。

先日、サカナクションの山口一郎さんが、ステージで歌っているとき何を考えているのかという質問に「祈っている」と話されていて、個人的に、ああ、なんだかわかる気がするなあと感じたんです。

私なりの「祈り」としては、「自分の好きなことできることに没頭することを通じて、『自分』の枠を超えるものが外側に届いて、それがいい影響を及ぼしてくれるんではないか」という、そういう感じの概念です。

というのも。

セッションをしていても、何かを提供していても、結局、相手のために自分ができることって本当に少ないんですよね。

相手のためになると思って言った言葉も、相手にとっては邪魔になることもある。素晴らしいものができたと思っても、それを相手が自分の意図したように解釈してくれるとは限らない。また、自分が助けたいと思っても、相手にとってはしばらく悩み続けたほうが長い目で見るといいこともたくさんあるわけで、その辺はもう、人間のレベルでは判断がつかないわけです。

また、仮に判断できたとしても、相手の悩みを物理的に解決してあげることもできないし、一言で全て霧を晴らしてあげられるようなこともできない、痛みを変わってあげることも、本人に代わって何かを準備してあげることもできない。

なぜかというと、人生はみな個別体験で、自分がしようとしたことしかできないし、自分が体験したことしか理解できないからです。

ブロックを外すお手伝いも私は好んでしていますが、それも結局は、海の水をバケツで掬って捨てるような作業であって、多勢に無勢というか、それだけをもって何かを解決できるかというと、大局的にみると大した影響はないわけです。

そういうわけで、結局セッションだの教育だの言っていますが、私のできることっていうのは本当に微々たるものなんです。そういうわけで、こちらがいくら努力しても、良かれと思うことが必ずしもいい効果を発揮するわけではない。

そういうことが仕事を通じてわかるようになった時に、私が思ったのは「なるべく純度の高い祈りができるようになろう」ということでした。

祈ると言っても、冒頭に言った通り、手を合わせて相手の幸せを願うということとは少し違います。

というのは、自分が作為して相手のために役立つには限りがあるわけです。自分の天井までの高さしか行けないんですね。

だけどしっかり身を投げ出して自分の何かを捧げることができたとき、相手の力も、見えない何かの力も多分に引き入れて、びっくりするような量のものを生み出すことができることがあるんです。

それってたぶん物理にすると秤に載せても、針がギリギリ振れるかどうかの、ごくごく微量のものなんですけれども。そういうものっていつかどこかで、絶対に相手を底上げしてくれると思うんです。

それは、あまりに小さくて相手も自分も気が付かないかもしれない。

だけど、何かのギリギリの選択の時に、孤独の重さに耐えかねた時、自分が困っていることすら気が付かないほど迷っている時、ふらりとバランスを崩しそうになった時、あと少しで届きそうなのに力尽きてしまうかもという時。そういうときに、たぶん、そういう力が作用して、紙一重で何かを選び取ることができることってあると思うんですね。

これは確信的に思うことです。

その力が何なのかはよくわからないし、いつどこで発動するかわからない。

その一瞬、そのわずか1㎎以下の質量のために、自分は仕事をしているんじゃないかなあと、最近はそう自覚的に理解するようになりました。

 

ただただ恵まれていて、私はたまたまここに来ることができました。何か少し角度が違っていたら、とんでもなく違う人生になっていたかもしれません。

だけど私はこの場所に来ることができた。

ということは、いざというときに作用するこの「紙一重」のものを、私は本当に多くの人からたくさんもらってきたからなんだと思うんですよね。

人は膨大な祈りに支えられて生きている。

祈りというのは一人ではできない共同作業だし、自分が貰ったものを人に手渡す作業でもあるのだとも思います。

そして、私は仕事を通して「適切に祈れる人を増やしたい」んだろうなあとも思っています。

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