好きになれるかどうかは、運である。

 

こんにちは、神代桃子です!

 

随分前の話になりますが、私が初めての出産を体験した直後に、ベビーマッサージの師匠(※私はベビーマッサージのセラピストの資格を持ってます)から、印象深い言葉を頂きました。

 

それは…

 

神代「無事生まれました~」

師匠「良かったね!で?可愛い?」

神代「可愛いです」

 

師匠「良かったね。可愛いって思えない人もいるんだよ

 

 

さらっとした一言でしたが、私は「へえ~、なるほど!!!!!」と思いました。

 

 

そうなんですよね。

自分の赤ちゃんを見て可愛いと思う人、可愛くないと思う人がいる。

でもそれって、自分で選べない。運なんだよなあ、と。

 

世の中的にはつい「可愛いと思わないといけない」「母親なんだから可愛いと思うのが当たり前だ」と思うところでしょう。

ですから、きっと「可愛いと思えなかった」人は、なんとなく後ろめたい思いや罪悪感を感じたり(もちろん産んでいるだけで、しっかり母親なんですけどね)、子供に手が掛かったり子育て関係のトラブルがあるたびに、潜在的に、自分がなにか問題であるかのような気持ちになるんじゃないかなあと思うんですよね。

一方、私はその部分に関しては特に辛さを感じないわけです。それは私が立派な母親であるとか、愛情深いかのとは全く無関係で、たまたま「可愛いと思えた側」にいたというだけ。

「線の右側と左側、たまたまどっちに立っていたかという違いだけで、優劣はないのだ」ということなのだ、と私は思ったんです。

ベビマの師匠がそういうつもりで言ったのかはわかりませんが、この言葉は非常に強く私の印象に残ったわけです。

 

 

ここでは「可愛い」の話をしましたが、「好き」「楽しい」「興味がある」もそうなんですよね。

そもそも、向かってきた刺激に対して自分がどう反応するかという話なので、コントロールできない天気のようなもの。「好きになろう」とか「楽しもう!」みたいなこともよく言われますが、そもそも自分にそれを求めたところで、本来的にはどうにもならない部分(例えば、「好きになるために、いいところを探す」程度の努力はできるかもしれませんが)。

 

ポジティブ感情だけでなく、ネガティブな「嫌い」「つまらない」「興味が持てない」みたいな感情も同様です。「あ、嫌いかも」と感じてしまったらそれを覆すことは、できないんですね。

昨今、「気持ちをコントロールしよう」的な考えが世の中に広まっているなあと思うのですが、私が思うのは『コントロールできるのは、「感じた後に、じゃあどうするか」という部分だけ。気持ちは動物としての生理現象なので、抑えつけると、ありのままの自分ではいけないんだという自己否定になってしまう』ということ。

「嫌い」と感じた気持ちを、無理矢理抑えつけたり、ジャッジしたり、理屈で好きにならせようとするから自分の中でどんどん話がややこしくなるわけですね(余談ですが、自分にとって都合の悪い感情であっても『なるほどね、そう思ったんだね』と尊重して感じれば、成仏することも多いんですよ)。

 

好きだから偉いわけでも、嫌いだからダメなわけでもない。今はたまたまそう思っている。だけど明日はもう変わっているかもしれない。それは自分の意志とは関係ない。

人間とは、結局は『自分にはコントロールできないそれ』に沿って、じゃあどうするか、と考えながら、その都度生きていくしかないのかもしれません。

 

さて、そうやって考えた時に、いつも私に湧いてくるのは「私はスピリチュアルや内観を『好きだと思える側』に、たまたま立たせてもらえている」という感覚です。

 

スピリチュアルも内観も、好きになろうと思ってなれるものでもないわけで、それプラス、多くのお客様と触れ合えて、こんなにこれらに時間と労力を費やせるのは、非常に「恵まれた環境」があってこそな訳で…それってもはや私の努力とかではないんですよね。

私のレベルでは理解できないけど、意味があって、理由があって、私はここに立たせてもらっている。どこに向かうのか、明日何をどう感じるかもわからないけれど、今はそう思います。

 

だからこそ、その時の「好き」「やりたい」に誠実でありたいし、それを通して仕事をできる『今』をもっともっと喜びたい。

そして、自分以上の何かに仕事をさせてもらっている以上、もっともっと「今以上のもの」を内側から引き出したいし、「自分以上のもの」を外側から喚びこんでみたい、そう思います。

 

そして、あなたにとってのお仕事も、そうあってもらえたらいいなあとも思っています。

 

 

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