肉体を持って生きるということ~死別の悲しみと向き合う~

高次の人にはピンと来ない「死別の悲しみ」

ずいぶん前のことですが、可愛がっていたペットのインコが亡くなり、悲しくて泣いていたとき、仲良くしていた高次の人にこんなふうに言われたことがあります。

「ねえ、桃子ちゃん。あなたは高次の世界がわかるから、その子が死んでもお話できるし遊ぶこともできるでしょ?かえって生きてるときより、ずっとそばに居られる。なのに、どうしてそんなに悲しむ必要があるの?」

その時私は、その質問に答えることができませんでした。そして同時に、彼女があまりに濁りのない目で不思議そうにそう言うので、思わずゾッとしたのを今でもよく覚えています。こんなにも悲しみが深いのに全く共感されないということが恐ろしく、普段親しくしていたつもりの「高次の存在」が、自分とはおよそかけ離れた化け物のように見えたのです。

しかしその一方で、確かに彼女の言うことは、筋道が通っているとも思いました。理屈だけで考えると、悲しむ合理的な理由は私にはありません。だけどそれを頭で理解しても、やっぱりその別離はずいぶん悲しかったのを記憶しています。

「肉体を持って生きる」ということ

さて、あれからずいぶん経ちましたが、「死別がなぜ悲しいか」という理由について、今になって自分なりに思うことがあります。それは「それが肉体を持って生きるということなのではないか」と言うことです。

もともと我々は人間になる前は、エネルギー体として存在していました。しかし人間になると「肉体」を初めとした物理的な制限がかかるため、どうしてもエネルギー体であったときよりも、つながりや愛情を感じることが難しくなります。そのため、肉体や物質や誰かとの関係性など「目に見えるもの・形あるもの」に固執することは避けられません。それゆえに、身体的な触れ合いや物質の所有を本能的に求めますし、そしてその「形」が失われたときに、理屈や理論や自分が対応できる範囲を越えて、根底がぐらつくような悲しみを感じるのではないか・・・と私は思うのです。

その上、人間は人と人とのつながりの中でしか生きていけないようにプログラムされていますので、「大切な人」の存在なくして生きることはできません。つまり、我々は人間である以上、「大切な人との死別」と「その痛み」を避けて生きることは出来ないのです。人生の中で、誰もが「親しい誰かが先に死んでいく」と言う経験を余儀なくされ、そして自らもいつか「親しい人を置いて死んでいく」こととなります。

つまり、『肉体を持って生きること』は『死別の悲しみを感じる経験』と必ずセットになっているということなのです。

冒頭の話に戻りますが、高次の彼女が私の悲しみを理解できなかったのは、彼女が冷たいわけではなく、「彼女が肉体を持ったことがなかったから」という(※注)、きっとただそれだけの理由だったのでしょう。

(※注:高次の存在がすべて「死別の悲しみを理解できない」というわけではありません。人間の経験がある存在などは結構理解してくれたりもします)

「死別と向き合う」ことは、「自分と向き合う」こと

サロンには、死別の苦しみを抱えた方も多くいらっしゃいます。

長い介護や看病の末に大切な人を見取ったという方・・・
不慮の事故や突然の病気によって大切な人を失ったという方・・・
年を若くしてこの世を去ったお子様を見送るという体験をされた方・・・
待ち望んだ妊娠であったにも関わらず、死産や流産を経験された方・・・
大事な人と仲たがいをしたまま、真意を確認することが出来ずにお別れを余儀なくされた方・・・

皆様さまざまな事情をお持ちです。

「あの人がどう思っていたのか聞きたい」
「もう一度話したい、無理でもなんとか生き返って欲しい」
「どうしたらいいか教えてもらいたい」
「情けないけどいつまでたっても変われない、変わる気力が湧かない」
「こんなことを考えてはいけないと思うのだけど、今でも許せない」

そうおっしゃることを恥じたり、自分を責めたりしている方も少なくありません。しかし、私はそういうお姿は尊いものであると感じます。

悲しんだり、もがいたり、受け入れられなかったり、誰かのせいにしたり・・・そういう姿は、ご自分ではみっともないとお考えになるかもしれません。しかし裏を返せば、「そこまでして消化しようとしている」「苦しみに向き合い、そこから大切な何かを掴み取ろうとしている」過程にあるということなのです。その過程では、その人の個性や、その人が大切にしているものが非常に分かりやすく浮き出ます。その経験を通してしか分からないことを、その人にしか出来ないやり方で掴み取ろうとする、ということは「自分しか出来ない形で自分の人生を生きる」ということ、つまり「自分の本質と向き合う過程そのもの」でもあるのです

そこには特定の正解はありません。正しい方向に進めないときもあるでしょう。希望が持てないときもあるでしょう。しかし、その過程もきちんと導かれ、守られています。『死別の悲しみを感じる経験』が人間に課せられているのは、けして嫌がらせではありません。そこから学び取るべきものがあるからなのです。回り道をしても、時間をかけて自分と向き合うことが出来れば、何かを見出せるときは必ず来ます。だからどんなに悲しくても「大丈夫」なのです。

語弊があるかもしれませんが、「だからどうぞ、安心して悩んでいただきたい」といつも私は思っています。

悲しみの渦中にあるときには

とはいえ、苦しみの中にあるのはとても辛いものです。その渦中にある方に、心理学的な観点も交えながらお伝えしたいことが、3つあります。

①悲しみはしっかりと感じてください

「悲しんでばかりいてはだめだ!」と感情に蓋をする方も多いですが、悲しみはしっかりと表現してください。
人間は、痛みを感じた分と同じだけ、悲しみや怒りとして吐き出す必要があります。忙しさなどで痛みを紛らわすという時間もあってよいですが、その一方で「安全な場所でじっくりと時間をかけて悲しむ」ことを自分に許してあげましょう。

それが不十分なうちから「前向きに!」とか「この悲しみを活力にして!」とムリをすると帰って長引きますし、自分で自分を傷つけることにつながってしまいます。いわば、「高熱を出している人にムリヤリ解熱剤を飲ませて、『体力づくりのためにジョギングに行って来い!』と外に出す」ようなものです。

悲しみの消化には時間がかかり、段階的に行われます。「もう大丈夫だ」と思ってから、何年も後になって新たに感情が出てくるということもあります。そのペースや必要な時間は人によってさまざまです。そしてあなたのペースはあなたにしかわかりません。誰かの言葉に惑わされず(それがどんなに善意であったとしても、です)「自分の悲しみ」に意識的にペースをあわせて、しっかりと悲しみましょう。

(※「安全な場所でじっくりと時間をかけて悲しむ」:たっぷりと一人の時間が確保できるときや、信頼できる第三者(プロのカウンセラーや、信頼できて受け止めてくれるだけの余裕のある友人など)と一緒にいるときなどが望ましいです。その時には、大声をあげたり感情的になったりすることも全面的に自分に許し、徹底的にやるつもりで取り組むととても良いでしょう。また「同じ離別にショックを受けている人」には、つい受け止めてもらいたくなってしまうものですが、相手も余裕のない状態であることが多いため、あまりおすすめできません)

②死別は「罰ではない」ことを理解してください

「悲しむこと」と「自分を責める」ことは全く別のことです。なるべく自分を責めたり、原因を追究したりはしないようにしてください。

前に述べたように、死別は人間に生まれた以上は避けられないことです。人間は何かショックな出来事が起こると、自分の中に理由を探したくなってしまう生き物ですが、「あなたが死別で悲しい思いをしている」理由は、あなたに至らないところがあったからではなく「単にあなたが人間に生まれたから」です。どうぞご自分を粗末になさらないでください。

③悲しみはあなたの個人的なものだと理解してください

残念ながら、あなたの悲しみはあなたにしかわかりません。感情に向き合うというのは孤独な作業であり、一人でやる以外ありません。自分の感情は当然分かってもらえるものとつい考えてしまうものですが、「それを前提にすると自分がかえって傷ついてしまう」ということを理解しましょう。

人間は自分で体験したことしか理解することが出来ません。離別の経験がない人があなたの気持ちを理解できなかったとしても、(冒頭で紹介した高次の彼女のように)残念ながらそれは当たり前のことなのです。また、似た経験をした人であれば、比較的気持ちを理解してもらいやすいかもしれません。しかし、それでも完全に理解してもらうことはどうしても出来ません。悲しみには個人差があり、人それぞれに千差万別の体験であるからです。

悲しいときに、誰かに頼ったり一緒にいたりしてもらうことは悪いことではありませんが、誰かの助けを借りるときには「自分の悲しみを100%理解してもらうことは不可能」ということを前提にしましょう。そして、してほしいことやしてほしくないことは、自分からハッキリと言葉で示しましょう。それが自分自身を守ることにつながります。

もしも誰かに傷つけられても、その人はあなたをないがしろにしようという意図ではなく、その人もその人の悲しみに向き合うのに必死だったり、あるいは「理解できなかった」「理解しているけども表現の方法を知らなかった」というだけだったりする場合がほとんどです。相手が自分の思うとおりにしてくれなかったといって、あなたを否定しているわけではないということも、覚えておきましょう(※ただし、これは、「相手を許さなければいけない」ということではありません。怒りなどを感じたときはそれも否定せず、悲しみと一緒に安全な場所でしっかり感じましょう)。
また、「頭ではそう分かっていても、ちょっとしたことでも傷つきそう、許せなくなりそう」というようなナーバスなときは、なるべく自衛のために意識的に人と距離を置きましょう。

もしもお手伝いが必要なときには

先に書いたとおり、離別の悲しみに向き合うことに、特定の正解はありません。早いほうがいいと言うこともありません。ご自分のペースでゆっくりと、行ったり来たりしながら行っていただいてよいものです。

ただ、もしも第三者や高次からの視点を交えたお手伝いが必要だとお感じになったときには、当サロンでよければ、お力になりたいと考えております。苦しみからお救いすることは出来ませんが、「自分で自分を救いたい」という方が自分と向き合うために使っていただくには「スピリチュアル」という手段は非常に優れています。チャネリングやエネルギーワーク、心理カウンセリングのスキルを総動員して、出来る限りのお手伝いをさせていただきます。

「安全な場所で気持ちを吐き出したい」「故人からのお話や、ガイドからの意見が聞きたい」「この離別がどういうメッセージであるのか教えて欲しい」「同じことの繰り返しをもうやめたい」「自分と向き合いたい」・・・そんなときにはご相談くださいね。

なお、ご相談に関しては、出来事から1.5~2ヶ月程度以上が経過してからが望ましいです(この理由については、また機会があれば別の記事にてご説明します)。また、ガイドさんの意向や高次の事情等によってはご希望に添えない場合もあります。その場合は、個別にご案内させていただきますのでよろしくお願いいたします。

最後に。
この記事の情報が必要な方に届いて、少しでも何かのお役に立てばこれ以上のことはありません。辛い悲しみが和らぎますよう、別れの奥にある愛情を信じて安心して悲しむことができますように、心からお祈りいたします。

 

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